THE HISTORY OF CARHARTT !!!
GET THE REATA LOOK !!!
【Carhartt】
1855年8月27日、ブランド創設者である「ハミルトン・カーハート」は、
医師であった父・ジョージ カーハートと母・レファ ジェーンの子として、
New Yorkのウエスト・ウォルワースで誕生。
1882年に、最初のビジネスとなる衣料品の卸売業をスタート。
その2年後には家具や手袋の卸業会社「ハミルトン・カーハート&カンパニー」を
米国ミシガン州デトロイトに設立した。
デトロイトは1830年代から輸送、造船、製造業が年々成長を遂げており、
労働者に向けたワークウェアを製造することを決意する。
1889年になると、社名を「ハミルトン・カーハート・マニュファクチュア」とし、
わずか4台のミシンと5人の従業員でワークウェアの生産をスタートさせ、
最初のプロダクトとして
丈夫なダック地とデニムで作られた「オーバーオール」を世に送り出した。
これが今日まで続く”Carhartt”ブランド誕生の瞬間。
しかし、船の帆やテントにも使われていた丈夫な素材を用い、
擦れや破れにも強く、労働者にとっては頼れる製品であり、
デトロイトとサザン・ミシガンは労働者の数が増加していたのにも関わらず、
ビジネスはなかなか軌道に乗らなかった。
徹底的に製品づくりを見直し、労働人口の多くを占めていた、
鉄道員たちのニーズに応える仕立ての良いプロダクトを生み出すため、
鉄道技師に製品改良のためのアドバイスを求めた。
そして、デニムまたは12オンスのコットンキャンバスを用い、
優れた耐久性(トリプルステッチ、銅のリベット、ボタンホールの強化)と、
極上の着心地
(ワイドレッグス、サスペンダー、特許を取得したビブ・デザイン)を併せ持ち、
定規やペンチといった工具用ポケットや、
ハンマーループを備えたオーバーオールを完成させた。
そして、このオーバーオールはアメリカンワークウェアのアイコンとなっていった。
産業の成長とともに、プロダクツのクオリティを向上させ、
新たなマーケティング戦略を駆使しながら着実に成長を遂げ、
1910年には8つの縫製工場と2つの紡績工場を抱えるまで事業を拡大するようになり、
社名も「ハミルトン・カーハート・コットンミルズ」へと変更。
この頃のCarharttは当時”カー”と呼ばれていた路面電車と、
ミシガン州を含むアメリカ合衆国中西部”ハートランド”をブランドの名に掛けて、
通称「ハートマーク」と呼ばれるロゴを使用していた。
1923年にはブランドの象徴的なアイテムであるブラウンのダック地を使用した
カバーオールを発表し、今日までほぼ形を変えず展開している。
そして1925年には、
オーバーオール、シャツ、パンツ、シューズ、ハンティングウェアなど、
様々なワークウェアを製造するようになる。
1920年代から1930年代にかけて綿花恐慌と経済恐慌のあおりを受けることになり、
一時的に業務縮小を余儀なくされた。
1937年、創設者は妻とともに交通事故により他界(享年82歳)。
1940年代に入ると第二次世界大戦の影響による物資統制が実施され、
製品にもリベットを用いないアイテムや、
ロゴ刻印のない月桂樹柄ボタンを使用したアイテムなどが販売された。
全米自動車組合が組織されていた1935年から1960年頃まで、
タグには「UNION MADE(ユニオン・メイド)」という言葉が記されていた。
“ユニオン”とは労働組合を意味し、
当時のアメリカで労働組合は大きな影響力を持っており、
自動車産業に限らずどんな組合も
組合を否定するような企業が作る製品は購入しないようにと指令を出していた。
自分たちと同じ立場の人間が作った製品を求め、
商品に縫いつけられた「UNION MADE」のタグが
それを見分ける方法となったのである。
当時は製品を購入した人々に、無料でカレンダー付きの手帳を配布していた。
手帳の扉には〈アメリカの労働者諸兄へ〉という呼びかけが記されており、
自分たちより上の世代の人々が、
様々な困難を乗り越えて獲得してきた労働者の団結を讃え、
さらにCarhartt社は常にワーカーたちとともに歩んできた会社だと綴られていた。
1966年、現在世界中で広く認識されている、
通称「Cロゴ」をブランド・ロゴとして発表。
このお馴染みのロゴは、
豊かさを表すシンボルである「コーヌコピア(豊穣の角)」と呼ばれる、
ギリシャ神話に登場するゼウスに乳を与えたヤギの角がモチーフとなっている。
1971年にはジーンズの製造にも乗り出し、初の子会社「Carhartt South」社を設立。
1970年代は時代の流れを読み、プロダクツ・コンセプトである
〈耐久性、品質、フィット感、着心地の良さ〉を維持しながら、
ワーカーだけでなくより多くの人たちが着用できる
カジュアル・テイストのアイテムの販売をスタートさせる。
1989年に大きな節目となるブランド設立100周年を迎える。
この年に製造されたアイテムのタグやボタンには、
「100 YEARS 1889-1989」の文字が施され、
100周年の記念として白頭鷲をモチーフにしたスペシャルワッペンも製作された。
米本国では時代を問わず労働者にとって欠かすことのできないワークウェアであるが、
90年代に入るとタフでリーズナブルなプロダクツは
数多くのHIP HOPアーティストに受け入れられ、
ストリートウェアの代表的ブランドとしての地位も確立。
同時にヨーロッパや日本でもカジュアル・ウェアとして高い人気を集めていく。
1997年には満を持してデザインやシルエットをより現代的にアレンジした、
ヨーロッパ発のカジュアル・ウェア・ライン〈Carhartt WIP〉をスタートさせる。
ブランドは更なる進化を遂げ、
ファッション・ブランドとしてもワールドワイドにその名が知られていくようになる。
そして、クラブミュージック、アート、スケートボードなど、
様々なサブカルチャーを積極的にサポートしていく。
歴史と伝統あるワーク・ウェアをルーツとし、
アーバン・ライフスタイルにフィットする革新的ブランドとして
世界中で親しまれている。
是非店頭で実際に触れてみてください。
ものすごくいいですよ。
THE HISTORY OF WRANGLER !!!
【THE HISTORY OF WRANGLER】
ラングラーの母体となるブルーベルの成り立ちには、
数々のワークエアメーカーの創業と統合の歴史がありますが、
ルーツとなるふたつの会社のうちのひとつがハドソン・オーバーオール・カンパニーです。
創業者C.C.ハドソンが弟のホーマーを引き連れ、
生まれ故郷のテネシー州ウイリアムソン・カウンティの
スプリングヒル農場を後にしたのは1897年のことです。
彼らが最終的に辿り着いたのは、
アメリカが誇る有数のコットン生産地として名高いノースカロライナ州グリーンズボロでした。
C.C.ハドソンは弱冠20才で、まず地元のオーバーオール製造工場で働き始めます。
この工場は後に閉鎖となりますが、
その時点で数台のミシンを買い取り独立の道を歩むことになる。
1904年、ハドソン・オーバーオール・カンパニーを設立。
場所はサウスエルム・ストリートの食料品店の屋根裏部屋。
ビジネスは順調に推移し、
仕事場は屋根裏部屋からグリーンズボロのアーリントン・ストリートにあった古い教会に移り、
農場の女性達を雇い縫製規模を拡大していきます。
1919年、社名をブルーベル・オーバーオール・カンパニーと改名されました。
同時に、サウスエルム・ストリートとリー・ストリートが交差する角に
はじめての自社工場を設けるまでに至ります。
ちなみにブルーベルの名前は、
店の馴染み客だった鉄道員のグループから贈られたベルにちなんでつけられたという
伝説も残されています。
ベルは鉄道員からの信頼の証として工場に置かれ、
デニム生地の裁断などで生まれるブルーの粉塵で覆われていったといいます。
ブルーベルトは「インディゴに包まれた労働者の象徴としてのベル」という意味となります。
伝説であるにしろ、とても夢のある逸話です。
ハドソン・オーバーオール・カンパニー創業の3年後、
重要なもうひとつのワークウエアカンパニーがテネシー州で産声を上げました。
1947年、ジーンズの歴史に輝かしいエポックを刻み永遠に記憶されるべき年となりました。
それまでのワークエアオンリーの企画・製造から、
ウエスタンウエアの分野へと打って出る決意をしました。
ラングラー・ブランドの誕生を意味し、
ブルーベル社はそれまでのスローガン「世界のワークウエアメーカー」を
「世界のワークエア&カジュアルウエアメーカー」へと変更する。
ブランド名ですが、
1943年にケーシー・ジョーンズ社を買収したときに一緒に取得したものでした。
ブランド名の決定はトップダウンではなく、社員参加で行われました。
ブルーベル社の財産のひとつであったカウボーイを意味するラングラーの商標は、
いくつかの候補と共に従業員の前に提示され、
圧倒的な支持により選ばれたという民主主義的な背景も
特徴であり、魅力でもあると思います。
企画には、ハリウッド映画のカスタムテイラーであったロデオ・ベンを招いて行われてました。
この年のモデルでは、代名詞でもあるジッパーフライはまだ採用されていないものの、
バックポケット上にレイアウトされたパッチは、本革を素材に用いて内巻きロゴが刻印されている。
また、フロントのポケットも独特のフロントスウィングポケット仕様はまだ施されておらず、
ワークウエア的なテイストが残されている。
セルビッジデニムを使用した巻き縫いのアウトシーム、7本ベルトループ、
ラウンド形状のノースクラッチリベット、ウエストバンドのラインと平行してデザインされた
“ロデオ・ベン・ウォッチポケット”など、現在もラングラー・ジーンズのアイデンティティとして
知られるディテールデザインはすでに開発されています。
カウボーイの実像は、1日の大半をサドルの上で過ごすハードワーカーです。
それは洋書屋などで見かけるカウボーイを題材にした写真集などを開けば一目瞭然。
顔や手に刻まれた深いシワが、その事実を物語ってくれます。
その一方で、カウボーイは強い国、夢の国アメリカの象徴ともなりました。
そのきっかけは定かではないですが、
30年代の大恐慌の頃を境にしてのこととも言えるのではないでしょうか。
経済の悪化による重く暗い世相に打ち勝つためのマインドツールであったのかもしれません。
牧場主が経営悪化の打開策として企画したデュードランチ(観光牧場)には、
富裕層がヨーロッパ旅行の代わりの楽しみとして訪れていました。
その結果、観光客が過ごした休日のヒーローとして親しまれることになる。
同時期に、銀幕でも主役を努める重要なキャラクターとして登用され、
ここでもヒーローとしての虚像が作られていきました。
以後、映画のスクリーンの中でのヒーロー役を’70年代前半まで努めることになります。
ウエスタンムービーの消滅は、
1970年を前後して勧善懲悪を否定した映画が新しいムーブメントを
起こしたことにより行われたと思われます。
第二次世界大戦直後から50年代は、
カウボーイがヒーローとして迎い入れられた時代のひとつのピークで、
数々のウエスタンムービーが映画館のみならず、テレビでもオンエアされている。
初代デザイナー、ロデオ・ベンがウエスタンムービーを世に送り出した
ハリウッドの衣装デザイナーであったことも、時代の写し絵であるといえるかもしれません。
1950年
テレビのウエスタンドラマ「ホパロング・キャシディ」の衣装デザインを担当することになります。
以後、このウエアはブルーベル社のボーイズ・ブランドとしてもリリースされました。
サンフォライズド加工を施したブラックツイル素材のジーンズとジャケットが企画されましたが、
当時の広告を見ると、ラングラーのジーンズとジャケットがベースになっていることが分かります。
1955年には、ウォルト・ディズニー・オフィシャルの
「デイビー・クロケット」というボーイズ・ブランドをリリースするなど、
ウエスタンウエアに対するニーズに、多角的に応えていました。
これらの事実は、ラングラー・ブランドがウエスタン・ジーンズの代名詞として認められていたこと、
そして製品としての完成度がいかに高かったかを証明するエピソードとして
捕らえることもできるのではないでしょうか。
1960年代品質の向上を追求すると共に、生産基地と販売エリアの拡大を積極的に推進しました。
当時社長を務めたJ.C.フォックスが理事会メンバーの支持を得て決定した海外進出でした。
1962年にベルギーのヘンクに初の海外工場をオープン。
ラングラー・ブランドはヨーロッパでも人気を博し、
以後10年間で海外工場はマルタ島、イギリス、そしてカナダに設立された。
ブランドへの需要拡大、1965年に兄弟ブランド、マーヴェリックをリリースしたことなどにより、
国内の製造キャパを増大することも急務としてのテーマでもありました。
その施策として、1964年にはレッドキャップ・マニファクチャリング社を買収。
同社は、レンタル・ランドリー・チェーンにユニフォームやワークウエアを供給することで知られるワークウエアメーカーだ。
レッドキャップは現在も残され、キャップマークのワークウエアやユニフォームが生産されている。
1966年にノースカロライナとサウスカロライナ州に4つの工場を持つ
ビーバー・シャツ社、アラバマ州ハックルバーグのハックルバーグ・シャツ社の買収に踏み切る。
同年にはプエルトリコのコーラルマニファクチャリング社も買収し、
3つの工場を有するプエルトリコ・ブルーベル社へと発展させていく。
この生産拡大の同時期に、ラングラー・ジーンズには品質改良が加えられています。
1964年のブロークンデニムの採用です。
ブロークンデニムは、特殊な織り組織によりシームのねじれを防止した生地で、
生地表面に出るヨコ糸(白い糸)の量が少ないので、
ブルーの色が鮮やかに見えるなどの特徴があります。
当時、ジーンズにのり付けしてアイロンをかけ、
折り目を付けることがカウボーイ達の間で流行っていたのだが、
ブロークンデニムはのり付けしやすく、
彼らの「パリッとして、こぎれいなジーンズのはき方」の作法にも応えた。
ラングラーとカウボーイ、とりわけロデオとの結びつきは強い。
ボディにはカウボーイのための意匠が数多く施されていた。
また、当時のチャンピオン・カウボーイのジム・ショルダースなどと契約をし、
フィット感やスタイリングなどの提案を広告上でも行ってきた。
(ただし、それは個人との契約であった。)
定番が進化するに従い、ロデオ・カウボーイたちからの支持はより強固なものとなっていった。
1974年、全米プロ・ロデオ・カウボーイ協会(PRCA)が、
ラングラーのジーンズとシャツを支援するアナウンスを出した。
1975年、13MWZを協会の公認ジーンズにも指定する。
ロデオは、カウボーイが日々培ってきたテクニックを競技化したもので、
アメリカでは伝統スポーツとして広く認知されており、
そのハードな種目をこなすには、ジーンズには、頑丈さ、
そして馬上の動きをサポートする機能が必要とされる。
例えば、ラングラー・ジーンズのラウンド状にデザインされたリベットは、
サドルを傷付けないための機能を求めて生まれたもの。
ベルトループにしても、バックサイドを強化した7本ベルトループは、
ベルトをしっかりとキープするもの。
フロントのベルトループの位置が離れているのは、
大きなバックルを好むロデオ・カウボーイ達の嗜好に応えたものといえます。
競技は、暴れ馬や牛を乗りこなす荒々しいもの、そして時間を競うスピーディな種目がある。
前者には、鞍をつけた馬に乗り8秒間の間に暴れ馬を乗りこなし、さらにライダーのフォーム、
馬がどれだけ激しく跳ねたかなども診査項目に入れられる
サドル・ブロンコ・ライディングをはじめとして何種目かがある。
サドルをつけない裸馬に乗るベアバック・ライディング、
雄牛を乗りこなすブル・ライディングなど、どれもがハード極まる競技です。
スピードを競う種目には、樽の間をスラロームして走るバレル・レーシング、
馬上から若い牛に飛びついてねじ伏せるステア・レスリング、馬上から子牛にロープをかけて、
足を縛り上げるカーフ・ローピングなどがある。
このワイルドな動きに耐えられるだけのタフさを持ったジーンズ、
そしてライダーの動きをサポートするディテール機能をもったジーンズ。
ラングラーの13MWZは、数あるジーンズの中から、
そんな要求に応えた唯一のジーンズである、という証明。
それが協会から公式ジーンズとして認められた栄誉ある史実が示すことでもあります。
全米カウボーイのライフスタイルブランドとしてのポジションを強固なものとしていきます。
1980年代以降、そして現在もそれは変わらぬアイデンティティでもあります。
1979年にアウトドアテイストのアイテムをリリースし、
1980年にはカウボーイをイメージキャラクターとして起用したビッグプロモーションを展開。
さらに、1981年にはオートレースに協賛するなど、その幅を広げていく。
その中で、1970年代後半に公開された映画「アーバン・カウボーイ」は、
新たなウエスタンファンを生み出す原動力ともなりました。
当時の社長ビル・ハーベイは
「ジョン・トラボルタがあの機械の牛に乗ったとき、
彼はかつてなかったほどのビッグショットをジーンズインダストリーに与えた」と後に語っている。
「そのとき国内市場は3億本から4億本の間を行ったり来たりしていた。
映画がリリースされたあと、誰も彼もがウエスタンに夢中になって、
私たちは1年で5.1億本に到達した。国民全部がジーンズをはいていたことになる」とのコメントは、
当時のブームの過熱ぶりを伺い知るには充分すぎる歴史的証言です。
その一方で、世界のジーンズファンに向けた活動も活発化していき、
日本にも1972年に上陸し、
以後日本のジーンズシーンには欠かせない重要ブランドとなっている。
それはヨーロッパを始めとした国々にも共通することでもある。
また、カウボーイだけではない各界の著名人達からの支持も熱いものとなっていきました。
世界チャンピオン・グランプリレーサーのジャッキー・スチュワートは
1970年代前半にラングラーのスポークスマンを務め、
プロゴルファーのリー・トレヴィノは
ラングラーのリー・トレヴィノ・スポーツウエアコレクションのデザイン・コンサルタントとして有名。
また、ミュージックシーンでは、ガース・ブルックス、ウイリー・ネルソンなどのビッグネームが、
こぞってラングラーを愛用し、彼らの歌にも登場することになる。
ブルーベルが築いたワークウエアの由緒ある歴史をルーツに、
11MW、13MWZなどの名品を生み出してきたラングラー。
そこには、常に働く人々の快適性を考えるというスタンスがあります。
長い歴史の中で育まれてきた、このアイデンティティは今も健在で、
世界のウエスタンファン、ジーンズファンのライフスタイルブランドとして愛され続けています。